4月6日月曜日の朝一ニュースは、昨日午後7時からMBSテレビ報道60周年SPテレビ史を揺るがせた100の重大ニュース今夜一挙公開!の中で  初証言!!元号「平成」の名付け親が明らかにを紹介する。

 昭和天皇が87歳で崩御された、その1989年1月7日の午後、「元号に関する懇談会」(8人の有識者で構成)と衆参両院正副議長に 「平成」 「修文」 「正化」 3つの候補を示し、意見を聞いた。

 その際、委員の間から「修文(しゅうぶん)」 「正化(せいか)」の2候補はローマ字表記の頭文字が「昭和」と同じ「S」になるので不都合ではないかという意見が出て、全員一致で「平成」に決まった。

 同日14時10分から開かれた臨時閣議に於いて新元号を正式に決定し、14時36分内閣官房長官の小渕恵三が記者会見で発表した。

平成を創った男

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 一九八九年一月七日、新しい元号が決まるというニュースに私はテレビの前で心待ちにしていた。小渕恵三官房長官(当時)がおもむろに出てきて、右手に平成の文字を掲げ「へいせい」と読み上げ新元号「平成」を発表した。「史記」と「経書」を出典とし「国の内外、天地に平和が達成される」という意味を持つと説明。翌日、新元号は施行された。

 我が国の元号は飛鳥時代の「大化」から「昭和」に至るまで二百四十六のすべて「天皇の大権」に基づいて決められた。これに対し「平成」は、国民主権により内閣によって決められた初めての元号となった。

 しかし政府は、平成をだれがいつ考案したのかをはじめ、最終候補として平成以外に「正化」と「修文」が残っていたことなど基本的な情報も、いまだ正式に公開していない。
 

 平成の元号が国民に定着した九五年(平成七年)十二月、歴史の新事実として、新聞報道された。「平成は故安岡氏が考案、山本達郎氏が後に再提出、新元号に決まる」との大見出しで達郎の顔写真入りで大きく報じられた。

 それによると、昭和天皇の逝去に伴い改元された現在の元号「平成」は七九年(昭和五十四年)に陽明学者の故安岡正篤氏が考案し政府に提出したが、安岡氏の死後、山本達郎東大名誉教授が再提出し、最終的に新元号に決定されたことが三十日、明かになった。と記し関係者証言を束ねる形で構成されている。
 
 証言によると、政府は七九年(昭和五十四年)六月の元号法成立を受けて安岡氏や宇野清一東大名誉教授ら四人に考案を委嘱。同年中に安岡氏が「平成」など、宇野氏が「正化」などの案を提出した。

 その後、安岡氏が八三年に死去するなど考案者に物故者が相次いだため、政府は八四年に貝塚京大名誉教授を考案者に追加したが八七年に死去した。そのため政府は内々、
 

1、改元の手続きは正式に天皇の死後の着手が適切

2、国民の印象矢縁起上も問題がある  として、昭和天皇逝去以前に死去した学者の元号案について不採用の立場をとった。

 八七年九月の昭和天皇の腸手術を契機に、政府は改元準備を見直し、山本や目加田九大名誉教授らに再び委嘱。山本が「平成」、目加田が「修文」などを提出し平成が息を吹き返す形となった。昭和天皇逝去直後に、政府は山本らに電話で正式に委嘱。閣議で「平成」に決定した。

 
 新聞は山本達郎を次のように紹介している。アジア史学の長老で日本学士院会員、文化功労者。著書に、日本ベトナム史研究の代表作とされる「安南史研究」がある。漢学や国史の学者が中心の元号考案委嘱者の中では、この人も異色の存在。

 養父は旧男爵、父が貴族院議員で貴族の血を引き、女官長を義理の妹に持つなど皇室と縁が深い。アンコールワット修復を図る「アンコール遺跡救済委員会」などを通じて社会活動にも参加してきた。

 外務審議官も努めた福田博最高裁判事の義父に当たる。(原文のまま)養父とは山本達雄であり、父は松村真一郎である。松村は達雄の娘の嫁ぎ先きである。つまり山本達雄(バックナンバー第3話)の実孫で山本家を継ぐため養子となったのである。

  
 平成四年、父親「山本達雄生誕之地」記念碑が海添保育園の右手に建立されたが、建立までには数年かかっている。そもそも記念碑建立の話は平成元年、達郎が臼杵に帰り宝蓮寺住職に自分が責任をもって実現したいとの決意を話して始まった。

 達郎は平成の新しい元号と共に、何か心に記する思いがあったのではないだろうか。提出した元号「平成」の詳しい経過については、口を閉ざしている。 尚、山本は今年度の文化勲章を受賞した。臼杵人としては野上弥生子につづいて2人目である。


文・吉田稔 http://www.coara.or.jp/~myks4/